没後50年だったのですね、三島由紀夫…バルコニーで演説している姿がテレビ中継されていたのを思い出しました…
NHKスペシャルで特集されていたり、何かと三島由紀夫の名前を見かけたのは11月25日が命日であり、今年(2020年)は没後50年だったからなんですね。。。
1970年(昭和45年)11月25日(水)だったんですね。
軍服を着た三島由紀夫がバルコニーで演説をしていた日は。
えっ、そういえば、今年と同じ曜日だあ。
多分、夕方近くに その場面がテレビ中継されていて、一体 何事が起きたのかとテレビを見たかったのに、母が「子どもは見ちゃダメ」と、見せてくれなかったのです。
見れないとなると、見たくなるのが人間の心理。
何が起きたんだろう?
母の様子とテレビの様子から、ただ事ではない日本の一大事が起きているんだろうか……
まだ子どもでしたから、「怖い、恐ろしい。。。」という印象が強かったのです。
その後、バルコニーで演説していた人が割腹自殺をしたことを知りました。
うわ、なんでどうして、何が起こったんだろう。怖い、怖い
子どもでしたから、その当時に割腹自殺する人がいるんだというのが一番の衝撃。
お腹を切った後に首も切り落とすなんて・・・
その当時は首を切り落としたという事が、凄く頭に残ってしまったんですね。
三島由紀夫が誰かも分かりませんでしたし。
軍服を着てハチマキを巻いているのを見て、戦死した兵士の亡霊が乗り移っちゃったのかな〜なんて。
子どもでしたから、インパクトのある事件ではありましたけど、詳細までは全く分からない状態でした。
そうか、あれから50年経ったんだな。。。
11月21日(土)に放送された『NHKスペシャル』を見てみて、三島由紀夫は、幼少時は身体が弱く、そのことがコンプレックスとなっていて身体を鍛えるようになったことや入隊当日に風邪を引き、肺浸潤と誤診され戦争に行けなかったこと、同性愛者であることなどを知りました。
ノーベル文学賞候補に上がっていたのに、何度かその機会を逃すことになったことも知りました。
14年間、三島由紀夫さんを担当した編集者の小島千加子さんは、
「ノーベル賞だけは三島さんの中でも、格別なものとしてあったと思う。そこらじゅうのいろんな賞と違って。」と話すほど、ノーベル賞を強く意識するようになっていったのが分かりました。
川端康成がノーベル賞を受賞したことが相当ショックのように見受けられました。
それはそうですよね、何回もノーベル文学賞候補に上がっていながら受賞することはなく、先に川端康成が受賞することになったのですから。
番組を見ていて、そこら辺から何かが崩れていったような変わっていったように感じました。
もしかしたら、三島由紀夫がノーベル賞を受賞していたら、三島事件は起こらなかったんじゃないのかなと。
『楯の会』元会員の本多清さんは、こう言っていました。
「(三島は)もう自分も40歳過ぎたと。文豪として死ぬか、英雄として死ぬか、ちょうどその岐路にきたと。」
ノーベル賞を受賞していたら、胸を張って文豪として死ねるわけですし…
英雄として死ぬ方を選んでしまったのかなと、本多清さんのお話を聞いていて込み上げるものがありました。
若者との対話を晩年大切にしていき、シンポジウムを開き若者を声を聞き、真摯に答える姿を見させて頂きました。
東大全共闘のメンバーだった木村修さんは、こう言っていました。
「若者に対して、若者だからという変な理屈がなくて、真っ正直に若者に向き合っている印象」
「右とか左 表面上はあったとしても 根底まで考えろということだと思う。”根底的な対話”が人間には必要。」
1969年5月13日、東大全共闘との対決の1年後に、あの衝撃的なバルコニーでの演説、割腹自殺に至ってしまうなんて。
切られた首の写真もあるんですね。
驚きました。
その死は今も謎に包まれている・・・
三島由紀夫の素敵な笑顔の写真を見ていると、この笑顔の何十年後かに、あのような形で亡くなるなんて思いもよらなかったことと思います。
1970年って色んな事があったんだな。
一番に頭に浮かぶのが万国博覧会!
よど号ハイジャック事件に三島事件か。
あ〜あ、50年前か。
緒形拳さんが三島由紀夫を演じた『Mishima: A Life in Four Chapters』と言う作品もあるのですね。
アメリカで制作・公開された映画なので、日本では諸般の事情により未公開のままだそうです。