エルビス・プレスリーの命日にドキュメンタリー映画『ザ・サーチャー』後編を思い出しました
没後42年となった今日、エルビスに日本でライブをしてもらいたかったなと遠い空を見つめました
1977年8月16日、42歳という若さでこの世を去ったエルビス・プレスリー。
波乱に満ちた生涯を送り、自分の思い通りの音楽活動ができなかったことを後悔していたのではないかとドキュメンタリー映画『ザ・サーチャー』を見てそう感じていました。
いつの世も、いつの時代もエンターテイメントの世界、芸能界というのは事務所の社長やマネージャーが幅を利かせていて、そこに所属している芸能人は操り人形の如く、言うことを聞かないと大変な目に合うんですね。
エルビス・プレスリーも豪腕なマネジャー トム・パーカーに翻弄され、自分の思うようにならず大変悩んでいたことをドキュメンタリー映画『ザ・サーチャー』で知りました。
大佐といわれているトム・パーカーの戦略通りにことが進んでいく。
2年間の兵役が反映された映画『GIブルース』。
サントラ盤も大ヒット。
がしかし、歌曲はエルビスの音楽性に合っていなかった。
エルビスは妥協したが落胆は大きかったことだろう。
優秀なソングライターが作曲することはなく、音楽出版が囲ったソングライターたちが作った。
彼らが作った歌曲を使うのが暗黙のルールだった。
大佐と音楽出版とレコード会社が版権を厳しく管理していたのだ。
この時から仕事と大佐に幻滅し始めていた。
大佐が版権を管理していたことは生涯を通してエルビスの足かせとなる。
大佐は次から次へと大手映画会社と出演契約を結んでいった。
エルビスは仕事漬けになる。
つまらない映画を量産して方向性が間違っているとエルビスが出演を拒否すると、大佐とレコード会社映画会社が口を挟んできた「契約を守らないと何もできなくなるぞ」と。
これじゃ吉本興業の問題と同じじゃんとイヤな気持ちになっちゃいましたよ。
成功はすべて大佐のおかげで、失敗は仮想の敵のせいだと思わせたかった。
長年、そう信じ込ませてやってきた。
エルビスは、大佐によって洗脳させれていたんですね。
本当に恐ろしい。
ラスベガスでショーをするようになる頃から、サングラスに 袖にヒラヒラの紐がついたキラキラでマントもついている衣装に もみあげのあのスタイルになったんですね。
ショーは30日間で61回行い、日光を浴びることなくショーをこなしたようです。
それがエルビスを精神的に弱らせていった。
いろいろな場所、例えばヨーロッパや日本でショーをやってみたいという気持ちが大きかったエルビス。
がしかし、大佐が異国人であったため 海外に出ると再入国できない恐れがあり、だたそれだけのことでエルビスは海外でショーをすることができなかった。
自分の思い通りにいかず、言われるままラスベガスでショーを続けるのは辛かったことでしょう。
もしかしたら、日本でのショーが実現していたのかもしれないと思うと残念でなりません。
そのようなことを命日である今日、エルビスの知らなかった一面を思い出していました。
エルビスの伝記映画が製作されますが、大佐ことマネージャーのトム・パーカーを演じるのが名優のトム・ハンクス。
2人の関係がどのように描かれるのか興味があります。
亡くなってから42年経っても、《キング・オブ・ロック》の名にふさわしく人々の心に いつまでも根強く刻み込まれているというのは、それだけ魂に響く音楽だからでしょう。
エルビスの音楽のルーツはゴスペルであり、大きな影響を与えたことが一因なのかもしれません。