『次世代に伝えたい横浜空襲体験談』に参加してきました
戦争を体験された芦沢さんの生のお話をお聞きました
芦沢さんは、西横浜のあたりに住んでいて、
戦前は、商店街や映画館もあってにぎわっていたということです。
芦沢さんは1931年生まれで、亡くなった母より1つお姉さんでした。
東京は空襲が多かったのに、横浜はなぜおきないのかと疑問に思っていたが、
外人の居留地があるからではないかと考えていた。
空襲に備えて、1軒につき1つ防空壕を作るようにと命令が出た。
作らないと非国民とされた。
畳をあげ、その下を掘って防空壕を作ったそうです。
お金持ちは、コンクリートで固めた大きな防空壕を作り、その中にはタンスや冷蔵庫もありました。
1945年5月29日、B-29による焼夷弾の攻撃。
昼間の攻撃だったので、男性が家におらず畳をあげることができなかったので押し入れに隠れた。
B-29。富士山を目印に飛んでいた。
右に行けば、東京。
左に行けば、浜松など。
芦沢さんは、「富士山を隠したい気持ちだった」と。
多くの焼夷弾が空からふってきた。
飛行士と目が合うくらいに低空飛行だった。
焼夷弾は燃えると一気に火が出る。
保土ヶ谷には外人墓地があるので、安全ではないかと向かうが、
その途中に、真っ黒焦げな死体がいっぱい転がっていた。
死体が目に入るが、生きること、助かることに必死で、歩き続けた。
国道では、戸塚に向かおうと横浜から人がいっぱい流れていた。
真金町、黄金町、伊勢佐木町のあたりは、焼夷弾が落ちて燃えた煙により、大勢の方が窒息死した。
精神的になんとかなる。
神の国。神風が吹く。
臣民。
教育勅語。
などにより、なんの疑問も持たず、戦争に絶対に勝つと信じていた。
洗脳されてしまうのでしょうね。
大事なことは知らされない。
ちょっとでも人とは違うことをしたり、やったりしたら、捕まってしまう。
これから、どんどんと戦時中と同じ流れになっていきそうで、
本当に怖いです。
お話をお聞きした後、千羽鶴の糸通しのボランティアも行いました。
明日は、来年からはじまる道徳の授業について話をしてみたいと思います。
今日もランニングしたのですが、冷えと水分不足で足がつってしまいました。
走っている時は、筋が痛いなという感じで、お風呂からあがって横になったら、
つってしまって辛かったです( ; ; )