富士山 宝永の「砂降り」
『旧東海道歴史あらかると』最終講義になってしまいました
楽しみに通っていた講義が終わってしまうのは、秋風とともに哀愁漂う、寂しい気持ちになります。
今日は、神奈川歴史博物館学芸部専門員の古宮雅明さんの講義をうけました。
「富士山は活火山なのでいつ噴火してもおかしくない」とか、「最後の噴火から約300年経過して、いつ噴火してもおかしくない」などビクビクした思いがあります。
近いうちに富士山が噴火するのではないかという話はどこからともなく聞こえてくることもあります。
大規模な地震と連動して噴火が起きるのではないかなど。
1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火のお話を聞いて、今の時代に起きたらどうなってしまうのかと色々と怖くなってしまいました。
噴火そのものもそうですが、噴火した後がまた大変だったことを知りました。
1707年(宝永4年)11月23日(新暦12月16日)、富士山大噴火。
噴火そのものは約2週間で終息し、噴火による直接的な犠牲者はなかった。
しかし、駿河国駿東郡北部から相模国にかけては大量の石や砂が降り、降下堆積によってインフラが壊滅して大災害となり、その復旧・復興も困難を極めたそうです。
溶岩はあまりなかったが、火山灰が多かったようで、火山灰はそば粉のようだったとのこと。
神奈川県内に砂降りがあり、私が住んでいるところでも10cm積もったそうです。
雪でも10cm積もると意外と深いなと思うので、灰が10cmも積もったというのは大変なことだったでしょう。
農地も灰が降り積もり、麦が全滅に。
川に灰を捨てたところ、魚にも影響があったり。
サザエ・海老が死んでしまった。
そのようなことで、食糧がなくなり農民の生活が苦しくなった。
耕地を復旧するため「砂除け」「砂退け」の作業で大変だったこと。
10cm程度なら元の砂と混ぜてしまったようですが、水はけが良すぎて困ることも。
灰が高く積もった畑では、人力で「天地返し」で復旧。
北金目遺蹟で「天地返し」の跡が見つかった。
「天地返し」とは、畑に溝を掘り、そこに火山灰を埋めて、その上に下から掘り出した土をかぶせた。
上と下の土を入れ替えるので「天地返し」というそうです。
そのような大変な状況だったのに、やっと幕府から様子をみに来たのは1月の下旬だったということ。
約2ヶ月後。
いつの世でも、お上には頼れず、自分でどうにかしていかなければならないんだな。
噴火も大変だったことでしょうが、火山灰によっての被害のほうが ずっと長引き除去するのが大変だったんだなというのが分かりました。
その当時の人は、噴煙で全く状況が分からず「空が崩れる」と言っていたそうです。
どんなにか恐ろしかったことでしょう。