日英醸造工場(オラガビール)跡や『ひょうたん山のお穴さま』
〜旧東海道歴史あらかると〜 第4回「沖縄県人100年の歩み」
もう4回目となった『旧東海道歴史あらかると』の講座。
先回の「京浜急行120年の歩み」は、海堡島ツアーに行く予定だったのが中止になり、戦艦三笠を見学しに行ったので欠席したのです。
一番聞きたかった内容だったので、ちょっと残念でしたが、「京浜急行120年の歩み」の資料をもらうことができました。
今回の講師も第2回目の「なまむぎ今は昔」でお世話になった郷土史家サトウマコト先生でした。
先生のお話もずっと聞いていたくなるほどに楽しくて、自分の住んでいるところの歴史を知れるというのは、なんともダイナミックで、その時代の景色が浮かんでくるような不思議な感覚に包まれます。
1920(大正9)年、鶴見川沿いに、日本とイギリスが出資してできた日英醸造というビール工場が建設されたというお話とか。
そのビールは”カスケードビール”と言われていました。
その後、日英醸造は寿屋(今のサントリー)に買収されて”オラガビール”となりました。
この”オラガビール”は、その当時の田中義一総理大臣の口ぐせが「オラが」で「おらが総理」と呼ばれていたので”オラガビール”となったんだそうです。
面白いですよね。
ビールつながりで、キリンビール工場は以前は飛行学校だったそうで、埋立地を固くするには、飛行機を何度も飛ばせたり、馬を走らせたりして強固な土地にしたそうなんです。
キリンビールは元々は本牧にありましたが、関東大震災で大きな被害を受けたため、生麦に新工場を建てたそうです。
『ひょうたん山のお穴さま』のお話。
明治の末ごろ、京浜電鉄(現京浜急行)の軌道をつくる土をとるために瓢箪山を切り崩していたところ、丘の中腹で2m四方の大きな横穴が発見され、その穴の中から人骨、埴輪、土偶、まが玉、刀剣などがたくさん出てきました。
発見された穴の入口に格子戸を立て「お穴さま」として祭ったそうです。
目の悪いおばあさんが、「お穴さま」にお祈りしたら目が治ったという話が口コミで広がり、4〜5万人がお詣りに訪れ、駒岡にある「お穴さま」にお供えしたお線香の煙が、遠い鶴見駅からもモウモウと見えてスゴかったというお話。
お茶屋やお線香屋がいっぱいできて賑わったそうです。
そんなに活気づいている時代もあったんだな〜
鶴見区駒岡にある「お穴さま」の瓢簞山遺跡、行ってみたくなりました。
調べてみましたら、今では石碑のみがたっているそうです。
「沖縄からの人たち」のお話では、”ソテツ地獄”のことを知りました。
沖縄本島では1904年(明治37年)の沖縄明治大干魃(「ナナチチヒャーイ」)などの不作が追い打ちを掛け、著しい食糧難に陥った人々が救荒食として食用したソテツのデンプンが、毒抜き加工の不十分なために死者が出るほどの食中毒を引き起こすことがあったことから「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった。
本土や海外へ出稼ぎへ出るようになり、川崎、鶴見にも大勢の沖縄の人がきたということ。
鶴見(鶴見区仲通)には「沖縄ストリート」と呼ばれているところがあります。
諸外国に出稼ぎに行く際、トラコーマ眼疾患にかかっている人は横浜で下船させられ、家族と離れ離れにさせられて、1人横浜に取り残された子どもも多かったという話。
取り残された子どもの子孫は、もしかしたらこの地に住んでいるのかもしれないな。。。
などと、サトウマコト先生のお話を聞きながら、知らなかった色んなことを知り、想像をめぐらしました。